すべての瞬間を大切にするわ

と、ルイーズは言った。(映画「メッセージ」の一場面から)

幸せの総量を上げる(1年目の心境)

去年の2月22日、検査の結果「やっぱりすい臓癌ですね手術しましょう」と告知されました。それから1年がたちました。手術をして、抗がん剤をして、仕事をやめて、オロオロしながらジタバタしながら、恐怖と孤独のあまり脳みそをぼんやりさせながら、気がついたら1年です。

 

仕事っぷりも人柄も大好きだった仕事関係のがんサバイバーの方々から、「病気になっても病人になってはいけないんだよ」「誰かを育てるの。そして自分を育てるのよ」「治るも治らないも結局は運。それが命。つまりがんは運命でどうしようもない。だから自分の好きに生きればいいの」などなど、大切な言葉をいただきました。それを忘れることなく1年目。

 

半年ほど前、家庭倫理の会の偉い人に無料で相談できるという機会をいただき、不安でいっぱいの気持ちを語ってみたら「で、アナタどうしたいの?」と問われ。「・・・死にたくないです」と答えたら、「なんで死にたくないの?」「なんで生きたいの?」と返されて絶句。生きたい理由を答えられない自分を知り、この問いを忘れることなく自問自答し続けて1年目。

 

最近、「人は(わたしは)なんで生きているのか。そう、幸福を体験し実感するために生きてるんだね!」という、自分なりの答えをヒネリ出して、ようやく納得して、ちょっと落ち着いてきた気がします。

 

先のことはわからないのです。すい臓がんの生存率の低さとか、もし再発したら2年くらいかなぁ〜?と言う主治医の言葉とかが、いつもチキンでちっぽけなわたしの心を乱しにくるけれど、ガクガクブルブルしながらの2年(仮)と、脳みそホカホカの幸せを感じながらの2年(仮)だったら、同じ2年でも後者が断然お得じゃないか。たとえ残り時間が10年だろうが20年だろうが、ガクブルばかりで生きる歳月はしんどい。

 

人の幸せって何だろう?子どもの頃からよく考えてきました。自分の子どもの頃ってあんまり幸せじゃなかったなーと思っていた暗めの青春。なんかいろいろ悔しかったらしく、「幸福感なんてただの脳内物質の反応だっ。幸せを感じる脳汁が絶え間なく出るように、脳にプラグを差し込んで電流を流し続けたまま一生寝ていたら、それってきっと幸せな人生やで!」などとひねくれたことを本気で考えていました。ああ中二病。今思うと、小松左京の「果てしなき流れの果てに」と、ティプトリーの「接続された女」っていうSF小説の影響。あほや。笑。

大人になってからは、ひとりの人間の一生分の幸せの総量はみんな同じ、誰でも同じという人類皆平等で平和なコリクツを発案し、一人納得してきました。たとえば赤ちゃんが生まれたときの幸せはどんな大金持ちでも貧乏人でも同じようにうれしくて感動する。大富豪と世界の珍味、貧乏人と吉牛も、「美味い!」の感動はそんなに変わらないと思うんです。

たとえ残り時間が短いとしても、いまこのわたしの存在のまま(ダメ人間であろうとも)に幸せの総量と密度を上げていけば、我が人生に悔いなしではないのか?なんて最近思うようになりました。じゃなくて、無理矢理でもそう思うように自分を調教しました。そう思わないと、怖くて悲しくて耐えられないから。

このように人生と幸せを考える中で、気持ちよく答え合わせができた映画が、「コンタクト」と「メッセージ」。この2本。たぶん、わたしにとって間違いない。いまだにSFから影響を受けてる。やっぱりあほや。笑。

 

そんなこんなで、「すい臓がんから、ゼッタイ生きのこるぜ!」という強い意志(もちろん今もそれはあるけど)を全面に押し出して自分を鼓舞するのは、もうやめようと思う1年目です。

ブログのタイトルも、もう必死感は不要ですよと自分をなだめたいので、変更することにしました。もともとここはつづりかたを忘れないための練習場だし、自分のこころの吐き溜め的なものだし、そもそも闘病ブログではないし(闘う気は最初からない)。「がん」とタイトルに入ってるのもアレなのでもう変えちゃえ。

新タイトルは映画「メッセージ」の主人公の台詞をもらいました。大好きな台詞。座右の銘。掛け軸にして床の間に飾っているよ(こころの中の四畳半)。テッド・チャンの原作小説「あなたの人生の物語」は、私の人生の宝物のような本。

 

しばらくブログを書かないでいたけれど、この数ヶ月いろんな出来事があり、楽しいことうれしいこと面白いこと、とても悲しいことや怖いこともたくさんありました。脳みそを芋のようにホカホカとふかしながらも、ガクブルは消えない。そんな日々をこれからも書けるといいな。どんな思いも出来ごとも、書かないとどんどん砂のようにこぼれていくし。

そんな1年目。ヨシ、今日はこのへんでかんべんしといたる>自分