彼もきのこるよ。身近にいた膵臓がんの人
昨日、Eさんに会いました。
先輩、師匠、友だち、お姉さん・・・どれもあてはまらない存在の人。気づけば長いおつきあい。日頃滅多にお会いしないけれど、人生、映画、音楽、美術、本、旅などなど、いつも遠く長い道の先から、こっちこっちとわたしの感性と知性を導き、ときどき隣にやって来て一緒に歩いてくれる、そんな人です。
それが数日前、Eさんの旦那さまがなんとわたしと同じ膵臓がんであると知り、どうしてもEさんにお話を聞きたくなり、お会いしたくなりました。昨年5月に告知、6月に手術されたとのこと。もうすぐ1年です。旦那さまとご家族でどんな日々を過ごしていらっしゃるのか。術後の傷跡のためにできること、大病院の主治医とは別に身近に話せる町医者を持つことなどなど、たくさんのヒントをいただきました。
がん患者さんは多いし、その家族や友人も多いです。だけどいろんな種類のがんがある中で、膵臓がんの人はその難しさ予後の悪さからか、なかなか他のがん患者さんと思いを共感・共有しきれないものがあるように思います。わたしがときおり感じる孤独や虚無のようなものがそこから来るのかどうかわかりませんし、Eさんの旦那さんがどう感じていらっしゃるのかもわかりませんが。それでもわたしは、ひとりじゃないのだなと思いました。Eさんの旦那さまも「戦友じゃ、飲みたいね」と言ってくださったとのこと。この先生きのこった旦那さんとわたしで、きっと飲もうと思います。
Eさんとのお話はそれからますます広がって、Eさんが長く続けてこられたヨガのお話から、どんどん大事な、哲学的なお話へと至り、大切な時間となりました。絶対に忘れてはいけないからまとめフラッシュ。
伊能忠敬 50歳
千葉で仕事して引退後、50歳から江戸に出て勉強して、日本中を回って地図を作った。Eさんが50歳になったとき、旦那さんから伊能忠敬のように生きろと言われたそう。かっこよすぎる。そしてあらゆる日本の景色を見た伊能忠敬が、絶景といった開聞岳に行くべしと。わたしも行ってみたい。
すべてはすでに「ここ」にある
すべてはここにある。葉っぱについた朝露の一滴は、この世界のすべてを映し込んでいる。すべての葉っぱのすべての水滴が、それぞれにすべてを抱え込んでいる。つまり誰もがすべてを持っている。青い鳥にしてもなんだっても同じことを伝えていると思う。不足はない、ここに全部あるの。
生きているものを生きていないものが押す
死は無ではない。焼けば骨が残り、煙は空気に混ざる。物質ですらこの世に残り存在するのです。いわんや魂をや。こうして死んだもの、今はもう生きていないものは、微粒子になってこの地上を満たしています。誰も気がつきませんが、生きているものがふと見た(思った)瞬間に、一粒がチラッと光ります。あらゆる事象は、日々のいとなみ、暮らし、自然現象ですら、生きているものだけに起こることです。しかしもう生きていないものは、こうした生きているものに起きるすべての現象を、少しだけ押すように、触れるように、微かに関与しているのだと思います。
人は「精神ー心(魂)ー肉体」で生きています
ヨガとはもともと「くびき」という意味。馬を結わいつけ、留めるもの。今は、ポーズを取るフィジカルなものだけを特化しているけど、本当は哲学で、真髄は精神論にあります。Eさんは肉体と精神と心が自然とバランスして、無理なく為るようになるところがヨガ大好きな理由だそうです。
「ほら、石ころが落っこちたよね、忘れようよ」
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「為るは良い 為りたがるは悪し」
心のあり方としてEさんが大事にしている言葉。ただの無為自然とは違うと思いました。ひととおり体験し通り抜け、何周もして、自然体に戻った感じかなあ。何かになりたいと願うこと(欲望)があかんのか。誰かの役に立ちたい、もっと生きたい、元気になりたいと願うことも、「為りたがるは悪し」なのでしょうか。ただ結果として為るのが良いのか。生きる目的が違うということなのか。ここまで来ると、Eさんの世界の深さと広さに呆然とします。でも少しだけ、理解できる気もするのです。
昨日、Eさんはゆっくりゆっくり、一緒に歩いてくださった。桜咲く皇居のほとりを桜田門まで歩きました。春の夕暮れのおぼろげな光線と、皇居の広い空、重なり連なって咲く桜、日比谷方面の薄紫に霞んだビルの明かり、忘れられないわ。東京ってほんとうにきれいな街。
今日は元気が出てきて、長文を書くことができました。Eさんとお話できたおかげのように思います。こんなふうに、日々を充実させたいです。