すべての瞬間を大切にするわ

と、ルイーズは言った。(映画「メッセージ」の一場面から)

精神論から存在論へ

京都からわざわざ高校時代の同級生が会いに来てくれました。彼女は仏教を学び僧侶になっていて、長年ずっと浄土真宗の大きなお寺にいます。卒業後は会う機会もないままに歳月が過ぎ。それでも2年前に再会を果たし、今またこうして会うことができました。ありがたい。

 

「わたしは怖い怖いすい臓がんになってしまったの。だけどこの先、安らかに生きていきたいの。不安や孤独から解放されたいので、まず自分のこころをなんとかしたいです。こころを治さねば、からだも治らないと思っています。仏教ではそういう人に対して、どんなお話をするのですか?あなたはわたしに何を話してくださいますか?」

そんなことを聞いてみたかった。お坊さんという職業柄、人の生老病死は身近な日常だし、いままで数え切れないほどの死に際して数え切れないほどお経をあげてきた人だから、何かいいこと教えてくれるのではないか。お願い何かヒントくれ!という心境でした。

近況を報告しあったり雑談したりしながらも、いただいた回答は、わたしにとって意外なものでした。だけど違和感はなかった。びっくりしたけど、しっかり届いた。浄土真宗的な考え方として、という前提で彼女は言った、、、

 

 真宗では「心」を救わないです。

 救うべきは「心」ではありません。

 その「身」を救うのです。

 「身」とは今そこにある、

 あなたの存在そのもののことです。

 そして、すでにもう

 その「身」は救われています。

 

精神論ではなくて存在論なの、と彼女は言いました。いまここにある「身=“わたくし”の存在」を思え、ということらしい。それは「我」または「個」としての“わたくし”ではなく、“わたくし”に繋がるすべて(環境、場所、過去、人びとなどすべて)を包括した存在としての「身=わたくし」である、ということらしい。そしてすでに、このわたしは、何があっても、今どんな病気であっても、「おまえはもう救われている」状態なのだ、というのです。北斗の拳のケンシローの声で脳内アテレコしてしまったけど。

 

そして、桐の箱に入ったキレイなお数珠を手渡ししてくれました。小さな木のビーズに翡翠が入っています。この先、やすらぎが欲しいとき、心乱れたとき、そうでないときも、南無阿弥陀仏と唱えるようにと。ありがとうございます。やります。そして必死にならずともよい。ゆるゆるといけばよい。でもあきらめないことだな、と言ってくれた気がする。

では、より瀬戸際な立ち位置で「死を思うこと」については?彼女は公にはしていませんが、僧侶として長年にわたりある確定死刑囚に接見を続けています。わたしは「死が確定している人は、毎日の中で死をどう考え受け入れているのか。死刑を待つ日々をどう生きているのか」などなど興味があって、思い切って聞いてみました。

その確定囚の場合、日々気持ちが落ちることもあるけれど、根本では「今も決してあきらめていない」とのこと。再審請求、それから支援者たちの活動を信じているとのこと。仏教を学び、平穏を求めながら、定められた死まで拘置され続ける「身」であっても、あきらめないんだな。人間てすごい、としか言いようがない。

 

理解できているか腹落ちしているかどうかは横に置き、今日はものすごく重要なことを聞いた気がするので、後で反芻し深めるためにもここに書いておきます。寄る辺なき同じ気持ちを持つ誰かのためにも。友よありがとう。なむあみだぶつ。