すべての瞬間を大切にするわ

と、ルイーズは言った。(映画「メッセージ」の一場面から)

まぶだちにカミングアウトした

Mちゃんは10代の頃から仲良しで、人間不信で鬱々とすごしていたわたしの思春期の終わりに、この人生で、最初に親友だと意識した人でした。一緒にあほくさい同人誌をつくったり、パンク系のインディーズでローカルなバンドのライブに行ったり、自転車にのって京都市内のあちこちの古道具やさんに行ったり。2人、あの頃のおたく特有の暗さと一般の人には理解されがたい妙なセンスをアホでシュールな笑いに変えて、いつも一緒に遊んでいました。大晦日にはいつも京大の西部講堂で年越しをして、楽しかったよね。20代の半ばにMちゃんと一緒に東京にやってきて、しばらく一緒に住んでいたけれど、わたしは仕事に一所懸命になり、Mちゃんはやおいまんがに熱心な人になり、いつの間にか会う機会も減って、異なる世界で異なる人生を歩んでいきました。それでもたまに会うと、Mちゃんはいつも底なしに面白くてやさしい人で、ずっと心の友だと思っていました。

わたしがすい臓がんになったことを、Mちゃんにお伝えしたかったけど、深く悲しんでくれるのがわかっていたから、なかなか言えなかった。周囲の友人たち、お世話になった人、少しずつカミングアウトして、わたしはもう仕事をしていないこと、この先どんな長さになるかわからないけれども人生を生き直そうとしていることなどをお知らせする中で、昨日とうとうMちゃんに伝える決意をしたのです。

TwitterDMで、短い言葉で、流れにまかせて、深刻ぶらずにさらっと、当たり前のように伝えようと思っていました。なのに、たった十数文字を書いただけで涙があとからあとから流れ出て、あれ?なんで?なんで?と泣けて泣けて泣けてしまう。

がんを告知されても、怖さと孤独で押しつぶされそうになっても、今までわたしは一滴たりとも泣けなかった。2年前に父がリンパ腫で悲しい死を迎えたときも泣けなかった。鋼鉄のこころなのか、無神経の極みなのかと思ってきたのに、なぜ今なんだろう。

多感な時代を一緒に過ごし、たくさんの思い出を共有したMちゃんを前に、わたしはやっと、素直に正直に、自分を受け入れた気がする。

 

10代の終わり頃だったかな。お正月に出町柳の、鴨川の流れが2つにわかれる三角地帯で凧揚げをしたことがあって、Mちゃんと、あの頃仲良しだった絵描き志望のKくんと3人で。みんなお金がなくて暇があった。真冬の河原の冷たい風にのって、凧はぐんぐんとどこまでも澄み切った空に吸い込まれていき、小さく小さくなるまで上がり続け。凧糸が足りなくなって買い足しに行き。それから細くて強いテンションの、ワイヤーみたいに固くなった凧糸を伝って、わたしたちのこころは手元から空の上まで一気に上昇し、あの時、3人はもう地上にはいなかった。わたしたちは透明になって、乾いた冬の空をびんびんと響き渡っていった。

あんな体験は後にも先にもなく、あれが人生で一番美しい体験だったと今でも思い出す。その後、あの魂の響きをもう一度と願って、いろんな場所で何度か凧揚げをしたけれど、二度と同じ気持ちにはなれなかった。凧揚げの後、Kくんと別れ、冬の夕暮れの光線の中で、近所にあったアジア文化センター(?)に忍び込み、冬西日に染まった美しくて古い西洋建築の外廊下をはしゃぎまわった。特別な日だったな。そんな思い出も全部、Mちゃんへの数行の告白に忍び込んでしまい、わたしは泣いて泣いてDMを送信したのでした。Mちゃんからはすぐに以前と変わらない、心やさしい返信が来て、だけどその向こうで泣いてくれているのがわかった。それで大げさでもなんでもなく、わたしは浄化されたような、静かな気持ちになっていた。

 

ここからまた何かが、新しいフェーズに入っていくんだと、いま謎の確信がある。正直、きのこるためのもっと強い思い、生きていくためのモチベーションが自分にはいまいち欠けているんじゃないか?と自分自身を疑っていた。生きていくための必要条件を満たしていない気がして、不安があった。だけどMちゃん、わたしは今、向き合えていると思う。凧揚げをしなくても、あの透明に響き渡る冬の空はいまもここにあるんだと思える。これからもよろしく。友だちっていいなあ。大切だな。ほんとうに。