すべての瞬間を大切にするわ

と、ルイーズは言った。(映画「メッセージ」の一場面から)

16ヶ月目、TS-1卒業

手術後16ヶ月目。先週は3ヶ月毎のCT検査。結果、画像上の再発・転移は見られないとのこと。ひと安心。

しかし術後、下痢はずーっと現在も継続中。ときどき水便と激しい腹痛も。加えて先月中旬に突如、唇がタラコになってしまった。口腔内にも腫れがあり、のどが少し狭くなる。「こりゃ蕁麻疹の一種だなー、皮膚表面よりも少し深い場所に出来るタイプ」と近所の皮膚科医。抗ヒスタミンの服薬で一段落しました。若い頃から時々、蕁麻疹で苦しんできたけれど、口の中に蕁麻疹が出るとは知らなかった。

この件をCT検査の際に主治医に報告すると、「じゃあもうこの機会にやめましょう化学療法。のどが狭くなると窒息死しますから癌どころじゃないですね。まあだいたい、TS-1は1年以上飲んだからって効果的ってものじゃないですから、はいはい。」というわけで、ずーっとやめどきに悩んでいたTS-1、このたびあっさり卒業することになりました。

T(とっても)S(すてきな)1(いちばんの)お薬だと信じて今まで仲良く交際してきました。このご恩(下痢腹痛口内炎)は忘れません。ありがとうTS-1。さようならTS-1。これにて、長らく落ちていた好中球も回復していくであろう。これからはますます自助努力だ。衣食住、心技体、すべてを大切に暮らしていくのよ!・・・と決意していたところが、また一昨日から、こんどは全身に蕁麻疹が出てきて痒くてたまらず、眠れず、朝になる。じんましーん!

「マシーンが叫ぶ〜〜狂った朝の光にも似た〜あ〜」と脳内でチャーリー・コーセイさんの歌声(ルパン三世のテーマ)を再生しながら、ふたたびの皮膚科。蕁麻疹が全身に描いた巨大地図と掻きむしりの激しさ(広範囲に出血してた恥ずかしい)、それから肌色と眼球の色を指摘され「肝臓悪いね。そりゃ蕁麻疹も出ますね」とのこと。バレた。実はずっとASTとALTの数値が高い。改めて肝臓の検査、アレルギーも調べるとのこと。

さてどうしよう。肝機能の低下と蕁麻疹が蓄積したTS-1によるものなら、もうこの先は大丈夫なはず。大根と梅干しでも食っておなかからキレイにしていけばいい。いま、この辛さはTS-1からのラストメッセージ。「俺がいなくても強く生きていけよな。最後にこの痒みを贈るよ」いつだってお別れってこんな感じよね。その先にきっと新しい未来がある。

 

納棺スクールを見学した件

水曜日、梅雨の晴れ間のプチ遠足にまいりました。春から受講していた死を通じて生を学ぶという社会人講座の、教授と受講生の皆さんとご一緒に。行き先は、納棺師スクール。おくりびとの学校です。

親切丁寧にカリキュラムの一端を見せてくださり、また法律から倫理からメイクまで、納棺についての詳しい背景までも。さらに、著名な納棺士の先生との質疑応答の場も用意してくださいました。いま日本には2000名のプロの納棺師が存在し、そのうち高い技術や人間性を持つ「本物」は350名くらいだそうです。

 納棺の儀式を映像で見せてくれました。父の葬儀の際に見たものや、映画「おくりびと」で見たものと同様に、とても美しいパフォーマンスです。学長のお父様、やはり納棺師だった方が、能や舞の所作をとりいれて完成させたそう。また、それまでは白衣着用でおこなわれていた納棺を、シャツにネクタイ、黒いベストという服装に変えたと。死者への敬意をあらわすために。以降はこのバーテンさんみたいな洋装が、美しい所作による死装束へのお着替えとともに、日本全国の納棺のデフォルトになったらしい。お葬式を準備するための「作業」だった納棺が、死者を敬う「儀式」になったんだなぁと思いました。先代さまは、納棺界(界?)の世阿弥やね。文化は成熟する前のどこかでブレイクスルーがある。

 

で、わたしが感じたこと。華道や茶道、日本舞踊などに通じる様式美の世界ではあるけれど、扱うものはご遺体であり、お客さまはご遺族である。納棺師のお仕事がスキなく美しく洗練されるほど、所作が熟練した完璧なものとなるほど、それはマニュアルどおりに動くロボットのようにも見えかねないのではないか。そこに心が見えるだろうか。愛する人を亡くして傷ついているご遺族ほど、繊細に感じ取るんじゃないか。と思うと、なんとシビアな、手抜きどころか決して心を抜くことができない、人間性を深く問われる職業なのではないかと思いました。(本当はどんなシゴトもそうだけどねー)それが出来る人がきっと「本物」。

このあたり、生徒さんにどんな教育をおこなっていくのか、詳しく聞いてみたかったけど時間切れ。納棺士の先生にはシゴトを通じてどんな死生観が育まれたのか、それはどういうものか、詳しく聞いてみたかったな。

 

他、棺桶に入ってみたり、付属の超モダンなビル寺の全自動お墓参り(勝手に命名)を見学したりして、たいへん刺激される遠足となりました。棺桶体験は、わたしが入ると洒落にならんな、と思いつつ好奇心に負けた。生きたまま入ると逆に長生きします、と言われて、そいつはありがたいなよっこらしょっと入棺。中に横たわり、顔の上の観音扉が閉まると、意外なことになんだか落ち着く安らぎの世界。こころが静まり、感覚がふわっとする。アレ?この感覚、何かに似ていると思った。アレや!アルタードステーツや。水タンクに浮かんで、五感を遮断するやつ。フローティングカプセル、アイソレーションタンクともいうアレ。おもしろい。ふぅ・・・棺桶に入ると疲れが取れるぜ。

不謹慎ですいません。ちなみに老教授も嬉しそうに入ってた。

歌うスズキさん

去年のこと。古くからの友人であり、浄土真宗の僧侶のスズキさん(女性)に病気の相談をして以来、スズキさんはいつも気にかけてくれるようになりました。

上京されるたび毎度ファミレスで雑談の相手をしてくれるのですが、とりとめのない会話の中に、不意に重要な気付きやもの凄いキーワードが挟まってきます。スズキさんに限らず信仰の人は日頃まったく普通にしていても、一点どこか研ぎ澄まされたところがあるように思います。それが、ぐだぐだの俗物トークの泥水の中で急にキラっと光るから、言葉乞食なわたしは慌てて拾い集めてしまうのです。傾聴とか、唯識とか、今まで知らなかったそういう言葉も拾わせていただきました。そこから探求と思索のドアも開くというもんだよね。スズキさんいつもありがとうございます。

スズキさんはお経だけでなく歌も歌うシンガーソングお坊さんで、ギター1本と南無阿弥陀仏を携え、1年中日本中を旅しています。ライブハウスの他にもあちこちのお寺で、時には違う宗派のお寺でも、何かのデモや集会でも、呼ばれるがままにどこにでも行って誰にでも歌っているみたい。辺野古で歌ったよーとお土産に貝がらをくれたりしてびっくりする。でもイデオロギーはなくて、なんだかニュートラルなスズキさん。酒飲みで情緒不安定で情が深くてやさしくて面白い、自慢の友なのです。

 

そんなスズキさんから先週、同じくお坊さんのテンパクさんとのデュオによる、4枚目の新作CDが届きました。きっちりと高品質サウンドで響きわたるスズキさんとテンパクさんのメッセージ。 「大丈夫」という収録曲は、ライブでも何度か聞いていて、

 

大丈夫 安心して 歩いて行ける

 

という歌詞がいいなあ、好きだなあと思っていました。実は去年、わたくし不安と焦燥のあまり、えらいこと高額な闇治療に心を奪われ、お金を払うかどうか深刻に悩んだことがありました。わたしが毎朝1時間ほど散歩しているのを知っていたスズキさんは、「今までどおり、歩いていけばいいのじゃない?」と言ってくれました。それでわたしは少し安心して、歩いている自分をもっと信じようと思ったのです。その歌詞のままに。

 

大丈夫 安心して 歩いて行ける

 

ところが昨夜、改めてCDを聴きながら歌詞カードを見て、愕然としました。歩いていける、にはなんと

 

歩 い て 往 け る

 

という文字が当てられていたのでした。 往 け る ってか。今頃になってスズキさんの言葉のほんとうの意味を受け取りました。スズキさんはこの歌を、死にゆく人に向けて歌っていたのです。そうか。いま生きている全ての人はいずれ死にゆく人で、人はみな死につつある今を生きている、と浄土真宗の本に書いてあったよなあ。スズキさんは公私ともにたくさんの死を見届けてきたし、去年は死刑囚を見送りました。獄中からもらった1000通のお手紙や、面会室のアクリル板越しに合わせた手のひらや、処刑されたご遺体の引き取り。その壮絶な事実が「すべての罪はわが身にあり」という本に載っていて、彼らのことを詳しく知らなかったわたしは、読んで結構なダメージを受けましたが、それでも大丈夫だとスズキさんは歌うのです。

 

 大丈夫どんなにこわくても

 大丈夫どんなに淋しくても

 大丈夫安心して生きて往ける

 花びらは散っても花は散らない

 

 

CDでは蓮如上人の「白骨の御文」にも美しいメロディーがつけられて、歌われています。Amazonではまだ売っていませんが、そのうち販売するそうです。今はどこで買えるの?と聞いたら、京都の念珠店や法衣のお店で買えるよ、っていうので、いやそうじゃなくてタワーレコードとかで売ってくれ頼むからとお願いしておきました。

 

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デス・エデュケーション

ずっと病と死を意識するほかない毎日を過ごしてきて、

不安、孤独、絶望の果てに

荒涼殺伐としたこころを持てあまして

ウロウロのろのろしていました。

本を読みネットを漁りセミナーに参加し

さらに、宗教だスピリチュアルだとなんでもあり。

高速道路や国道じゃなくても、脇道に行っても、

奥の細道に咲く花が美しかったりもするし

獣道で野生動物に会えたらちょっと嬉しいし、

ただ怖がる日々よりも、なんかオモロイ毎日をと。

 (無粋だけど補足。

  高速道路や国道=標準治療、脇道=それ以外ね)

 

すべては乗り越えていくために

自分を再教育する生き方のチェンジ、へのチャレンジ。

どこまでうまくいっているのかわかりません。

しかしこうやって常に何かやって、何か考えているのが

束の間の安心をくれたり時には楽しかったりするのも事実でした。

 

一方でそういう毎日が、しょせんお茶濁しかもしれず、

あれ、これってもしかしてどん詰まりなのかなー

という気持ちも常に同時進行してきました。

 

しばらく前に、もう自力での自分再教育はいったん休んで、

ここは大きくフラットに、アカデミックにやってみよかな!

と思い立ち、今春からとある大学の

社会人向けの教育講座に通っていました。

テーマは死を学ぶ、死を通じて生を考えるというもので全10回。

途中下痢と発熱で欠席した日もありましたが、

人文系の老教授による素晴らしい講座でした。

(大学って、科目ごとにこんな面白い講義を日々やってるんだな。

うらやましいなー)

 

講座では、宗教、哲学、歴史、社会、文学などなど

毎回教授が出してくるジャンルを超えた

古今東西の膨大な「死の文献」がどれも興味深く、いちいち面白く、

貴重なものばかり。ぐぐっても出てこないものも多かったのは、

それは、有名な歴史上の人物や書物ではなく

市井のひとびとの死を紡いだ記録が多かったからかもしれません。

古い書籍や古文書のコピーや、手書きの資料が多く、

後から調べ直しができないので

お話の内容を聞き漏らすまいと毎回必死のメモ取りでした。

 

講座の内容をファイルにして、いま改めて読み直しています。

すると、とりとめないほどに膨大な資料の向こう側から、

名もなき人々が、ときには1匹の犬や猫までもが、

それぞれの生の主役として生きて死んでいった気配が

おぼろげな形をとりながらも

強いちからを秘めて、立ち上がってくるのです。

これを受け取り、そこに目を向け続けてきた教授の

人としてのやさしさに気づき、いま感動しています。

 

・・・とここまで書いて。

それでもまだわたしのこころは定まりません。

それでも受講してよかった。

新薬開発のニュースは希望をくれるし

こころにフォーカスする患者セミナーも

前向きになれるよいものだし、

最近、心理カウンセリングも受け始めて

誰にも言えなかった気持ちをべらべら喋る解放感もありがたいです。

でも、今回の死の教育講座は、

視野を、世界を、一気に広げてくれたように思います。

ああ、見晴らし山にはいい風が吹いているねえ。

 

 

G線上のアリア

G(がん)を生み出す原因に、3G「頑張りすぎ・我慢しすぎ・頑固」というのがあるらしい。わたしたち患者はピーンと細く張り切って、弓をあてればギギーッとメロディを奏でるG線上に立っているんだと思う。(我ながらうまい表現を考えついたよ、美しいなぁ)

 

土曜、患者さんのセミナー&ワークショップに行ってきました。またまた「がん患者のこころの在り方」系。Facebookに告知が出ていて、ふと気になって発作的に参加してみました。参加者は12名、1名のみ男性で他は女性ばかり。講師の方がその筋では著名な方らしく、わたし以外はファンクラブ風。自己紹介によると、どなたもめちゃめちゃ細い命のG線をギリギリに張り切ったような、ステージの進んだ患者さんたちでした。でもそれは強く固い線で、奏でる調べはとにかく凄い、音量も曲も凄いヘビーメタルで風圧に圧倒される。

つまり、みなさまめちゃめちゃよく喋る。語りがすごい。元気。タフ。明るい。話が長い。多少の強がり風味があっても、やりきってる感がありました。あまりにパワフルすぎて頭痛と目眩がおこりましたが、いい刺激をたくさんもらったと思います。女子は強いね。わたしもきっとね。

セミナーの内容はとても良かった。いままで知り、学び、考えてきたこと、最近おぼろげに整い始めている自分の生き方のスタイルを、明快に研ぎ澄ましてくれた気がする。「治療とこころとからだを一致させるためのノートをつくる」という内容。デスノートならぬライフノートだなー、などとまた上手いことをひとりごちて、ご満悦。うむ。苦しうない。余は満足じゃ。

 

わたしには、あのように人前で自分の思いを語れない。伝えられない。そのかわりにここでブログを書くのです。自分のやりかたでいいと思った。

セミナー出席の12名中、4名がすい臓がんでした。うち1名の方が5年半生存という、文字通りの生え抜きエース級。それだけで勇気がわいてくる。また出席者のお1人が熱心なクリスチャンで、明日はキリストの復活の日よ、あなたがたもわたしも復活するのよー!と仰っていて、美しい光を感じました。そんな今日のわたしのアリア。

 

お箸は、生と死の境界線

先週、ある講座を受講しました。その中に出てきた話題のひとつをわたしなりに考察してみました。お箸に見る、日本人の死生観について考えたことメモ。 

  

日本ではお箸は横置き。中国は縦置き。

(中国は洗濯ものも縦に干す。矛のように。向こう側を刺す文化)

ところで箸とは、端であり、橋である。

同音異義語ではなく、実は同音同義語である)

「はし」とは、彼岸と此岸を渡すもの。

 

「はし」は、端である。「隅っこ」や「果て」である。

「はし」は、橋である。町外れにつくられ、あちら側とこちら側を結ぶ。

「はし」は、箸である。置かれて生と死を分かち、使われて死を生に変換する。

 

日本人は食事の際、お箸を横に置く。

このお箸が、あの世とこの世の境界線をつくっている。

お箸の手前は生の世界で、今、生きているわたくしがそこにいる。

お箸の向こう側は死の世界で、既に死んだものがそこにある。

箸で分かたれた2つの世界。

 お米も野菜も肉も魚も、食卓に上がる前は生きていた。

死の穢れ、命を奪った罪悪感、悲しみや恐れなどを遠ざけている。

 

手を合わせて「いただきます」と言い、

箸を手にした瞬間、境界は消えて、箸は生と死を結ぶ橋となる。

死は体内へと運ばれ生を生み出す元となる。

 

面白いわ。深いわ。考えながら、

頭の中でアニメ「トリコ」の主題歌が響き渡るのです。

カラオケでよく歌っていました。

 

♪どんな食材ひとつにも宿る命は輝くファイヤー!

♪感謝込めて、イタダキマス!

 

串田アキラさんの歌は熱くて大好きです。

筋肉マン、アバレンジャー、トリコが、わたしの世界三大串田ソングです。ああカラオケ行きたい。絶叫したい。

話がそれました。

 

何が美味しいとか不味いとかのお話ではなくて、

食材や調理法はもとより、お箸や器、食べ方にも民族的な思想や文化があるっていうのがとても面白い。お箸を横に置いて生と死を分かつラインをつくる日本人。そこには潔癖さ、畏敬、感謝、いろんなものがあって、ホントに日本人くさいわ。笑

日本のお箸にはこうした生死の哲学が籠もっていて、シンプルに実用化されていて、無意識化された儀式になっていて、それが何百年も定着しているなんて、なんと洗練されているのだろうか。美しい所作で箸を持ち、食事しなければ!と改めて思いました。

 

中国では長いお箸を縦に。それは食事の動線をスムーズにしたもので、テーブルの遠くの料理もとれるように、らしい。たぶん。知らんけど。これはこれで合理的で無駄がない。(他にも意味があるかもしれないけど)

 

じゃあ、アジアの思想や哲学の源泉であるインドではどうなんや?と思い至る。お箸使わないよね。スプーンもないよね。手で食べるよね。一見、野蛮で未開。インドともあろうお国がなんでまた?と不思議になりつつ。しかし生死の観点から見ると、橋も箸も不要というか、そんなものやコリクツは、聖なる食事におけるノイズでしかないのかもと思ったりもする。インドでは太古の昔から、生と死は分かつものではなく常に一体である、などと考えていそうな気もしてくる。これもぜんぶ勝手な憶測。

 

ポエム

儚きものや滅びゆくものに想いを寄せて

ある種の恍惚感とともに愛でるのは

美しいなあ日本人の美意識だなぁと思います。

やさしくも甘やかに、そちらのほうへと心をひきつけられていき、

そして気づかぬうちに意識の底へガツンと黒い杭を打たれてしまう。

後は、そっちのほうへとそっちのほうへとオートマチックに

こころもからだも働いてしまう。

と、わたしは思っている。※個人の感想です。

 

影には、しびれるような中毒性のある美しさがあるのも事実。

好奇心やスケベ心で、無邪気に闇を嗜んでいた。

ミイラ取りって、カッコイイ職業だなぁとか思ったこともあった。

 

でもいまは、落ち込むような本は読まないように。

悲惨な結末の映画は見ないようにしているのです。

引っ張られるから。

悲しみや苦しみは、健康で幸福なひとたちの玩具で

今は、わたしたちのものじゃないと思う。

 

光あるところに影がある。くさい物に蓋をするな。

それは正しくそうなんだけども、

ただ真正面にきまじめに立っていても、

打たれた杭はいっそう深く刺さって抜けなくなりそう。

だったら今は、スタジオカメラマンがやるように

あっちこっちあらゆる角度から

照明をあてれば影は消える。技巧を使えばいい。

そして、光あるうちに光の中を歩め。

そんな、今日のポエム。