すべての瞬間を大切にするわ

と、ルイーズは言った。(映画「メッセージ」の一場面から)

お箸は、生と死の境界線

先週、ある講座を受講しました。その中に出てきた話題のひとつをわたしなりに考察してみました。お箸に見る、日本人の死生観について考えたことメモ。 

  

日本ではお箸は横置き。中国は縦置き。

(中国は洗濯ものも縦に干す。矛のように。向こう側を刺す文化)

ところで箸とは、端であり、橋である。

同音異義語ではなく、実は同音同義語である)

「はし」とは、彼岸と此岸を渡すもの。

 

「はし」は、端である。「隅っこ」や「果て」である。

「はし」は、橋である。町外れにつくられ、あちら側とこちら側を結ぶ。

「はし」は、箸である。置かれて生と死を分かち、使われて死を生に変換する。

 

日本人は食事の際、お箸を横に置く。

このお箸が、あの世とこの世の境界線をつくっている。

お箸の手前は生の世界で、今、生きているわたくしがそこにいる。

お箸の向こう側は死の世界で、既に死んだものがそこにある。

箸で分かたれた2つの世界。

 お米も野菜も肉も魚も、食卓に上がる前は生きていた。

死の穢れ、命を奪った罪悪感、悲しみや恐れなどを遠ざけている。

 

手を合わせて「いただきます」と言い、

箸を手にした瞬間、境界は消えて、箸は生と死を結ぶ橋となる。

死は体内へと運ばれ生を生み出す元となる。

 

面白いわ。深いわ。考えながら、

頭の中でアニメ「トリコ」の主題歌が響き渡るのです。

カラオケでよく歌っていました。

 

♪どんな食材ひとつにも宿る命は輝くファイヤー!

♪感謝込めて、イタダキマス!

 

串田アキラさんの歌は熱くて大好きです。

筋肉マン、アバレンジャー、トリコが、わたしの世界三大串田ソングです。ああカラオケ行きたい。絶叫したい。

話がそれました。

 

何が美味しいとか不味いとかのお話ではなくて、

食材や調理法はもとより、お箸や器、食べ方にも民族的な思想や文化があるっていうのがとても面白い。お箸を横に置いて生と死を分かつラインをつくる日本人。そこには潔癖さ、畏敬、感謝、いろんなものがあって、ホントに日本人くさいわ。笑

日本のお箸にはこうした生死の哲学が籠もっていて、シンプルに実用化されていて、無意識化された儀式になっていて、それが何百年も定着しているなんて、なんと洗練されているのだろうか。美しい所作で箸を持ち、食事しなければ!と改めて思いました。

 

中国では長いお箸を縦に。それは食事の動線をスムーズにしたもので、テーブルの遠くの料理もとれるように、らしい。たぶん。知らんけど。これはこれで合理的で無駄がない。(他にも意味があるかもしれないけど)

 

じゃあ、アジアの思想や哲学の源泉であるインドではどうなんや?と思い至る。お箸使わないよね。スプーンもないよね。手で食べるよね。一見、野蛮で未開。インドともあろうお国がなんでまた?と不思議になりつつ。しかし生死の観点から見ると、橋も箸も不要というか、そんなものやコリクツは、聖なる食事におけるノイズでしかないのかもと思ったりもする。インドでは太古の昔から、生と死は分かつものではなく常に一体である、などと考えていそうな気もしてくる。これもぜんぶ勝手な憶測。