すべての瞬間を大切にするわ

と、ルイーズは言った。(映画「メッセージ」の一場面から)

サイモントン療法のミニセミナー

519日土曜日、サイモントン療法のミニセミナーを受講しました。米国で70年代初頭に開発されたがん患者のための心理療法。メンタル面からの「きのこる術」として、がん発覚以来ずっと気になっていました。

というのも、どうしても逃げられない絶望や孤独や不安や悲哀などの感情があるからです。からだの芯までとらわれているからです。しょうもないギャグを垂れ流し、アホな笑いをたたみかけるのが大好きだったのに(周囲はどん引きだったかもしれないが)自分も旦那さんも周囲の誰かも、全然笑わしていない毎日になってしまった。こんなことでは本来の治療も、衣食住さまざまに必死になって取り組んでいることも十分に生かされないだろう。また、そもそもがんを生んだのは自分自身であり、その根源はこころにある。ってことが頭でわかっていても、肝心のこころが全然対応できていない現実。食事の改善や運動や十分な睡眠などに邁進したところで、すべての根源のこころがイケてないので、ここからまた絶望や焦りが上塗りされていく。

 

これが心理療法で一気になんとかなる、なんて甘いことは全然考えてませんが、絶望から這い上がり希望とともに生きていくための手引きが欲しい欲しいよと切実に思ってきました。それはサイモントン療法かもしれない。SAT療法かもしれない。他にもあるのかもしれない。しかし思うだけでは馬鹿の考え休むに似たり。まずは行動しようと「サイモントン療法/治癒に導くがんのイメージ療法」という本を読み、その直後にミニセミナーの開催を知り。知ったのは、参加申し込み締め切り日の後だったけど、ダメ元で問い合わせてみたら席を用意してくださったのでした。

セミナーでは本に書いてあったことのエッセンスの3分の1ほどを、座学とワークで学ぶ感じ。直前に本も読んでいたし、療法の内容も自分なりに考えてきた「こころを立て直す」「自分らしく生きる」に近いものだったけど、頭で考えてきたことと実践はやっぱり違いました。真剣にワークにとりくむほどに、自分の内なるものが表面化する。おお、おもろい。しかし、それがまるでテンプレートのようなので、ほんとうに自分のこころの内なるものが表出しているのか、無意識に場を読んで「制作」してしまったものなのかが、自分でもわからなくなってしまいました。先生のお話はとてもおだやかできめ細やかなものだったし、患者さんも参加するセミナーなのでこまめに休憩をはさんでくださったけれど、集中力が持たず、後半はへろへろになってしまって、大切なお話をたくさん聞き漏らしてしまったと思う。

(自分では元気なつもりでいるけれど、、、こんなにも気力、体力、能力が落ちているなんてぷちショック)

しかし。たった1日、6時間程度のミニセミナーであっても、わたしの中の何かが少しだけ動いた気がする。それが何かはわからないけど、今、脳みそにへんなドライブがかかっている気がする。

 

ブログ「残る桜も散る桜」で充実のすい臓がん情報を発信していらっしゃるキノシタさまも、ご自身が生き延びた重要な要素としてサイモントン療法を紹介されています。そこには、がん治療のためのすべてのベースは「心の平穏」であると書かれている。そしてそれは瞑想によってもたらされると。瞑想の大切さは、サイモントン療法にも、ヨガにも、今やビジネス書にまで説かれています。

やっぱりこれや!これやで!と確信を深めるわたしであった。

というのも「心の平穏」という言葉は、実は、10代の頃から人生の最大の願いだったからです。この人生、神社をお参りして絵馬や護摩木に願いを書くとき、また七夕の短冊を書くときも、いつも「心の平穏」と書き続けてきました。わたしは問題解決や願望成就のための神頼みを潔しとしないので、神仏に何を聞いていただくかといえば「心の平穏」しかないでしょう。ちなみに「心の平穏」を意識したのは中学生の頃、岡田文子の「ガラス玉」という漫画で。ガラス玉の中に浮かんでいる言葉こそ、アタラクシア=心の平穏でした。その概念を知った。(ああ我が人生はまんがとともに)

 

セミナー会場は浅草。講座が終わって外に出ると、三社祭の御神輿にでくわしました。人波に逆らって駅に向かう途中、吾妻橋ポケモンジムに伝説のホウオウが降臨していました。お祭りの喧噪と、夕映えのスカイツリーの空に舞う聖なる赤い鳥と。いまこの瞬間、わたしのかたわらを神々たちが通り過ぎていく中で、こころの平穏を願うなどなんと劇的な。

 

おや。ちょっと待て。地に足がついてないんじゃないか?わたし。