すべての瞬間を大切にするわ

と、ルイーズは言った。(映画「メッセージ」の一場面から)

できることはまだまだあると思う

できることはまだまだあるので、焦らず粛々と参ろうと思う次第です。

周囲の方々、こころ優しき皆さまに、

ご心配おかけしています。ありがとうございます。

なんとか力になろうとしてくれる

助けようとしてくれている人たちの気持ちが

わかるようになりました。

先週、セカンドオピニオンでは希望が見えました。

掴もうと思いました。

ゲノム検査もすすめていきます。

時間とお金と心意気を、可能性にぜんぶbetします。

 

週1回近所の瞑想クラスに通いはじめて、

こころが静かに喜んでいるのも感じます。

またまとめて書いていこうと思います。

初打ち

23日、水曜に入院し病室でアブラキサン+ジェムザールの初打ち。おとなしく微動だにせず受けているのに、頻繁にエラー。エラー解除の1秒後にエラー。その都度ナースコール。エラー音とコール音の連続に発狂しそうになる。同室の患者さんたちにも、たいへん申し訳ありませんでした。なんだかんだで初打ちは3時間余りかかってしまいました。夜、コーヒーが飲みたくなり旦那さんにリクエスト。ノンカフェインの熱々を、ポットに入れて出前してくれた。陶器の高級カップ&ソーサーをふきんに包んで持参。入院病棟の卓上に湯気のたつ本格コーヒー。アホで小粋な演出、彼も一所懸命にやさしい。カップとソーサーが揃ってないところが可愛くも切ない。

 

翌日、化学療法センターを見学しあれこれ説明を受けました。外来通院のたびに見かけていたこの入り口。ああここに入室する日が来ようとは。前日のエラー音について質問。「よくあることです」。この部屋中にエラー音がひっきりなしに響きわたるところを想像してまた発狂しそうになる。ヘッドホン○必。そんな誕生日。

 何人かの友人がLINEでおめでとうメッセージをくれました。あとは、過去に通販したネットショップ各店からのお祝いセールス。

10年ほど前のこと。「誕生日なんてめでたくないよー。また年をとって老けていくのを自覚するだけ。嫌い」などとヒネくれて言ったことがありました。そこへ旦那さん「誕生日は、年をとることを祝う日じゃない。この世に生まれたことを祝う日なんだ」と名台詞を。忘れがたい。

そんな思い出も蘇ってきましたよ。

 

術後1年半、再発

今日も元気。歩いてる。ちゃんと歩けている。そう思っていたけれど再発しました。すい臓がん手術後の1年半は激アツ再発ゾーンだそうですが、まさにど真ん中のヒットです。先週CTの結果、左腎臓の静脈を包むような影、育ち盛りといった風情で。わたしが元気だと、がんも元気になるんだろうか。

しかし、未だに沈黙の腫瘍マーカーである。当初より腫瘍マーカーがぜんぜん反応してくれない体質なので、手術後は3ヶ月毎のCTで見張るしかなかったんですが、その弱点を突くように再発したがんは、なかなか立派に育っていました。腎臓の太い静脈と小腸を木の枝に見立てれば、その枝に覆い被さる小鳥の巣のようだ。

今、改めて3ヶ月前のCTを確認してもらうと、既にうっすらと誕生している気配が見えました。これは専門医が見落としてもしょうがないレベルだから恨まないけどね。

 

 ・1011日 再発ですと言われた

 前週に撮ったCTの画像を見ながら、外科S先生から言われました。頭のてっぺんから冷や水。だけど、頭の芯にはスースーと風が吹いて、妙に冴え渡っていました。涙なんて出ないし、妙に落ち着いていたけれど、時間がたつとともにえも言われぬさみしさがじわじわとやってきました。悲しいとか苦しいとか怖いとかよりも、淋しい感じ。去年の2月にがん告知されたときよりも、もっともっと荒涼殺伐とした心境。圧倒的な孤独感、寂寞感、この世界の美しさ全部がいきなり遠ざかるような感覚。再発したよと旦那さんに電話しました。

夜、仕事を終えた旦那さんが帰ってきました。台風19号の接近で眠くなって布団で寝ていたわたしに、黙って添い寝してくる。ふと見れば、彼は涙を流していました。ハンサムでホリの深い鼻筋に透明な水がたくさん溜まって流れ落ちていく。わたしより旦那さんのほうが、もっと辛いんじゃないかなと思いました。いままで患者会で出会った家族の人たちが、患者本人よりも切実で悲しい表情をしていたことを思い出す。

旦那さんが可哀相になる。お仕事は不安でいっぱい、愛車は事故って再起不能。本当にかわいくて愛して心の支えだった猫さんも亡くし、とうとう嫁はこのありさま。ああ神様、どうかこの人を幸せにしてください。

 

1015日 1年後はわからんと言われた

 

本日は、外科から消化器内科へ転科しての初回外来。新しい主治医F先生に詳細を聞きました。根堀葉堀聞きました。先週、外科S先生は「このままなにもしなければあと1年です」とおっしゃったが、今週の消化器内科F先生は「抗がん剤はやってみないとわからない。効かなければ、1年後あなたはもうここ(この世)にいないこともある」とさらにレベルを上げてくる。重粒子線やゲノム医療などいろんな可能性をお聞きするも、いま現在ベストな選択は「来週から抗がん剤、ジェムザールとアブラキサン始めましょう」に行き着く。あっ、抗がん剤の初回はわたしの誕生日、こりゃめでたい!などと無駄でスカスカで哀れなほどの強がりをまたわたしは・・・

他、セカンドオピニオンの相談もしました。F先生はなかなかフラットで協力的、いいねいいね。

そう。まだまだ人生は続くし、わたしは明日も歩くのです。今までどおりコツコツと。時にはどかーんと一発も。できることをやっていこう。重粒子線だけでなく、わたしには他にも特出しのアンダーグラウンドなネタがある。犬の駆虫薬療法からフィリピンの心霊治療まで、すでにルートは確保済みだぜ。笑。マジで。

(3倍危ない?)玄米食とヒ素

 手術後1年半。今まで、それなりに食事療法をがんばってきました。菜食原理主義みたいなシビアなやつは性格的に無理なのでゆるめに、それなりに健康的な献立を意識してきました。

・主食は玄米、ハト麦入り。低農薬の自作米

・おかずは薄味、野菜たっぷり和食

・蒸しビーンズ、豆腐、納豆、テンペなど豆豊富

・毎朝、青汁。生ケールとりんごとレモン

・週2で小魚や青魚を動物性タンパク源に

・野菜ときのこの薄味スープが美味い

・ヒジキ、わかめ、のりなど海藻類ばっちり

・大根ゴボウなど根菜さんと仲良し

 

味付けはタニタ食堂の薄味加減(ほんとうに薄味です)を舌でコピー。発病以前の食事とはかなり内容も味も違うため、旦那さんからは「根性飯」などと言われていたが、慣れると美味しい我が家の味になりました。1年半続けてきて実際の健康効果や、体内ミネラルの過不足を知りたくなり、先月、郵送でできる毛髪ミネラル検査をやってみました。Amazonで売ってるやつ。髪の毛をひとつまみ、根元から3㎝切って検査機関に送ります。過去3ヶ月分のミネラル蓄積がわかるそうです。10日ほどで結果が送られてきました。

 

結果に愕然。正直、大ショック。

なんと有害ミネラル「ヒ素」が大量に検出されていました。結果表のグラフ、見応えがあるほどヒ素だけ長いじゃん・・・orz。基準値上限の約3倍。まさかの危険度トリプルスコアです。ちなみに水銀も鉛も他の有害金属はすべて安全圏内でした。マグロや大型魚を食べてこなかったおかげかもしれません。

さて、カラダにヤバいヒ素は一体どこから来たのか。原因を考えてみるとまずヒジキが怪しい。ヨーロッパでは発がん性から禁止されている食材。わたしは昔からヒジキの煮物が好きで、退院後はずっと貧血気味だったこともあり、月に数回、小鉢程度の量を食べていました。うむ。しかしこの頻度と量でトリプルスコアいくだろうか?

玄米を疑っています。

真犯人っぽい気がする。健康に有益なビタミンミネラルは米ぬか部分に凝縮しています。食物繊維も豊富で、これが玄米食の主なメリットです。精米するとこれら栄養素は失われるので、白米じゃなく玄米を食え!喰うのじゃ!というのが健康食や療養食の定説です。しかし同時に有害ミネラルも米ぬか部分に凝集している。日本の土壌はもともとヒ素の含有濃度が高く、古来より日本人は農作物からそれなりに摂取しているそうですが、健康を害するほどの量ではないというのもまた定説でした。農水省もそう言っています。だけど危険数値の3倍量は、さすがにどうかと。うちの玄米ご飯はメチャ美味しいし、これからも食べ続けたいのですが、不安でビビりながら食事するのは嫌だな。ヒ素対策として、玄米をゆでこぼして炊く方法などもあるようですが正直めんどくさいし、有用なビタミン類も流出するでしょう。困ったね。

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あと、もうひとつショックな結果。有用なミネラル。カルシウムとマグネシウムが少なすぎ危険域。小魚はせっせと食べてるし、1日1万歩歩いているのに、派手にカルシウム不足。なんでやー。加齢のせいもあるだろうけどそれにしても酷い。さらにマグネシウムが貧弱過ぎる。これは予想外でした。がんの再発予防のためにも、ミトコンドリア様には全力でいい仕事をして頂きたいと願い、ミトコンドリア様の活力源であるマグネシウムを意識して、高含有な食材(ヒジキも玄米もだよ)を摂っていたつもりだったのです。これでは全くATP回路が空回りではないかうぇーん。ミトコンドリア様、全然働いていなかった・・・。

思えば、繋がることがある。玄米食に青魚を食べ、毎日運動を続けていても、肝臓の数値がずっと悪い。脂肪肝が全く改善しない。長らく高脂血症(中止脂肪値280 mg/dlあたりをうろうろ )であることや、血糖値のコントロールがうまくできていないことなども、マグネシウム不足に関係している気がします。糖と脂質の代謝がうまくいっていない。しょんぼり。よっしゃ、そしたらニガリでも飲むか!?と思ったけど、ただでさえ下痢なのがより深刻化しそうで怖い。

あと気になるのはカリウムとナトリウム、ヨウ素の過多。カリウムは野菜を、ヨウ素は昆布やわかめをたくさん食べているためだと思われますが、塩分少なめタニタ食堂級の薄味なのになぜナトリウムが? 謎。

 

カラダによかれと思ってがんばってきた食事でした。しかしこのような結果となってしまい、もうどないせーっちゅうねん。ただ、ここで書いたようなわたしの解釈が間違っているかもしれないし、食事を見直そうにもどうすればいいかわかりません。ああ栄養士の友だちが欲しいなぁ。誰か指導してくれよー。

現在、ヒジキは摂るのをやめて、お米は5分づきで炊いて、小魚率を高めて様子見をしています。

というわけで悲喜こもごものミネラル検査でした。日頃の努力に見合う数字が欲しかったんです。自分で納得し、毎日の食事への取り組みは間違っちゃいないよと自信を持ちたかったのです。そんなスケベ心で余計なことはしないほうが平和だったのかもしれません。知らぬが仏です。3ヶ月後に再度毛髪検査をして経過を確認する予定ですが、もう絶対やらないかもしれない。検査や数値に左右されない、強さが欲しいです。いつもわたしは元気だしカラダもちゃんと動いています。自分で実感できている元気をこそ信じるべきなのです。と、頭で思って心は揺らぐ。修行不足です。

 

種子島でロケット打ち上げ

  • 8万発と1発

秋分の日の月曜日。その昔デスクを並べた懐かしい同僚たちと集いランチをしました。みんな元気にそれぞれ働いていて何よりです。元同僚の一人が言う「こんど釜山に、花火大会を見に行くの。なんと8万発も上がるのよ!」。8万発かー、それは凄いな。「実はわたしも明日見に行くのよ。1発だけなんだけど・・・」

というわけで翌火曜日わたしは鹿児島に飛び、17時30分、種子島に上陸。秋の夕暮れの光とツクツクボーシの声、広い空にひこうき雲。うわーきれい。アニメ映画「秒速5センチメートル」の風景そっくりの空気感と透明感。そらそうだ、ここがロケ地だよ。そして同日夜23時。わたしは南種子の展望公園に立っていました。HⅡBロケットこうのとり8号、発射予定時刻は25時05分05秒。ホントに来てしまった!

 

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  • 行動した

ここまで急展開でした。当初9月11日だった発射予定(チケット取れなくて断念)が延期になり、24日の予定がさらに翌日へと延期され、25日にずれ込むことが決定。そのとき、緊急弾丸ツアーの臨時ゲートがわたしの目の前に突如開いたのでした。それが先週の土曜の夜のことです。なんとも幸運なおこぼれツアー。11日と24日に涙を呑んだ人たちがいて、その先に25日のわたしがいる。ここにいる。

今回の情報をくださったHさんは11日の空振り組で、彼女は日米露と何十回も発射を見てきた宇宙大師匠であり宇宙女神なのだけど、「夜の発射はねー、打ち上げを見慣れた種子島の人でも息を呑むほど凄いって言うよ、見られるなんて羨ましいなぁ」などと煽ってくださる。何事もあきらめないで待ってみるものだ、そしてチャンスが来たら行動することだなぁと今回しみじみ思います。もうずっと昔からロケットの打ち上げを見たいと憧れ続けてきたのに、口だけで行動してこなかった。

 

  • 打ち上げ

種子島中種23時。ツアーバスを降りたら漆黒の闇の中。海峡をはさんだ3キロ先にライトアップされた発射台が見えました。やばい!何これ!超かっけー!この眺めだけで心拍数はMAX。超ドキドキ。だけど発射台から目を離せば、波の音と虫の声だけの静かな種子島の秋の夜、やがて目が慣れてくると空にはびっしり敷き詰められた星。天の川には時々星が流れてきます。ここには1/f的な何かがゆらぎまくっていて、脳はだばだばとシータ波(?)を垂れ流してくるし、心は平穏さのあまり今にも闇に溶けそうになるんだけれど、発射台に目を向けるたび心拍数は瞬時にMAXに駆け上がり。その繰り返しがやたら忙しくて幸せで、あっという間に時間が迫ってきました。

遠くのスピーカーから、女性ボイスの日本語カウントダウンが微かに。この音声がまた淡々とかっこよくて目眩がするほど。やがて150〜200人ほどが見守る公園が緊張感で静まりかえり、真っ暗な闇の中、もう波の音とカウントダウンの声しか聞こえない・・・その時、突然、対岸の発射台が太陽のように眩しい光を放ち、白煙の塊がふくらみ、浮き上がるロケット。そして空間を力ずくで曲げるような爆音がやってくる。どーんとか、どかーんじゃないよ。ギュイギュイギチギチ巨大な螺子を巻くような爆音が見える。刺さるように強くて巨大な光量で、空はたちまち日中のように明るくなり、昼を上空へと持ち上げていく。打ち上げの瞬間に叫んだ周囲の人ももはや忘我の境地、ロケットの光が夜空に消えるまで無言。わたしもだ。

 

  • 感想

3キロ先とはいえ、肉眼で見るロケットにはとてつもない重量感と硬質感があって、発射の爆発力にも度肝を抜かれました。こんなものを宇宙まで上げてしまう人間のパワーと技術力に畏怖の念がわきました。感動という言葉では足りないし、凄いという言葉も言い得ていないし、上手く書けません。もちろん感じ方は人それぞれに違うでしょう。今回ツアーで出会ったお一人さま参加の女性は、巨大な生き物に見えると言っていました。わたしは後から罪悪感がやってきました(このことはめんどくさいので詳しく書かない)。

今回、種子島に行くまでは、生きているうち元気なうちにやりたいことをやっておかねば!とか、すい臓がんの恐ろしさから逃げて忘れて、どかんと一発大きな感動で免疫を爆上げするぜ〜!なんて目論んでいたけれど、もはやそんな考えもどうでもよくなってる今。あの瞬間、いとも簡単に別次元が開いた、そこに生きていたんだと思えます。

 

  • アホみたいにやれ

「がんのことを考えない。自分が好きなこと、やりたかったことをやればいい」と、先輩患者が以前アドバイスをくださった通りでした。やっとわかりました。今回、すい臓がんのことなんて完全に忘れていた。それが今はとても嬉しいし、やり方もわかりました。ロケットじゃなくてもできるはず。好きなことをアホみたいにやっちゃえばいい。

また、昨年すい臓がんでご主人を亡くされたEさんも、以前アドバイスをくださっていた。絶望でガクブルしながら必死に足掻いていたわたしへ、「いつも感動し前向きになんて生きられないけれど、日々を研ぎ澄まし、こころ震える瞬間を捉えなさい。その瞬間が苦しい人生の隙間を、過去さえも、返し縫いのように埋めていってくれるのです」と。今回の体験ほど、力強い返し縫いもそうそうなかろう。こうしてわたしの種子島弾丸ツアーは終わりました。あー、面白かった。楽しかった。また行こう。

 

要約

・速攻で行動する

・好きなことをアホみたいにやる

・がんを忘れるにはデッカくいこうぜ

・ロケットならいとも簡単に別次元

・過去は返し縫いが効くので大丈夫

後出しじゃんけんはルール違反ではない

・みんな、楽しく生きようぜ

地上最強のすい臓がんサバイバー

友人のK子さんが週刊誌(週刊新潮8月29日号)の切り抜きを「元気出るよー!」と送ってきてくれました。たまたま道ばたで拾ったらしい。拾うなよ。笑。いや拾って大正解。涙。「世界最長寿 田中カ子さんのめでたい116歳ライフ」という記事です。

 

田中カ子(かね)さんは、今年ギネスブックに載った世界最強のご長寿さんです。お生まれは明治36年日露戦争の前年。なんとかねさんは、すい臓がんサバイバーであると。45歳のときに手術されているので、今年で71年サバイバーしているということ。なんともすんごい。こんなの初めて聞きました。

記事は、かねさんの116年の人生の歩みと現在についてを紹介するものなので、すい臓がんについての詳細は書かれていませんが、1948年(昭和23年)に九州大学で手術をされているようです。なんと帝銀事件の年でっせ。当時の医療はどんなだったんだろう?想像もつきません。治療法だってまったく違うだろうし、今と比較にならないほど手探りだったはず。

かねさんはその後、103歳で大腸がんの開腹手術も受けていらっしゃる。100歳超えの方のがん手術は日本では10例くらいしかないらしい。もちろん大成功。空前、唖然、呆然。神さまに愛されるにもほどがある。

かねさんは、お若い頃から決して健康な人ではなかった。だけど今もお元気に生きていらっしゃり、頭もこころも強く、オセロも強いらしい。今もお茶目でいたずら好きみたい。

 

記事から読めたわたしなりの学び。

・若い頃からメモ魔(やはり・・・思いを外部に出すって大事だ)

・炭酸飲料が好き(泡が出るものわたしも好き〜)

・3食しっかり食べている(おいしく食べられる幸せ!!)

脳トレ大好き(出題を楽しんでるのがいいなぁ)

・周囲へのちょっかいと気配り(孤立しないで人と馴染みまくる超重要)

・信仰(すい臓がん術後にキリスト教信者に)

 

記事では、明るく元気に笑いを絶やさず、毎日を生き抜く姿を強調し、おおらかな人物として紹介されていますが、それだけじゃ重ねられない116年。病気に関わらず人生のその都度に、どんな思いをしてきたのか。果てしないけれど。

人生に訪れた病気や苦難を、どのように乗り越えたのか、耐えてやり過ごしたのか、ただ流れにゆだねたのかもわかりませんが、かねさんが地上最強のすい臓がんサバイバーなのは事実。かねさんを思うと、「所詮、生き死には運」と簡単には言えないものを感じるし、生存成功の秘訣なんてどんなに考えても答えはないし、学べるのは薄っぺらい表面的なことだけだけど、かねさんの存在だけで確かに元気が湧いてきます。「人生で一番楽しかったときは?」の質問に「今!」と答えたかね先輩。わたしも、そんなコト言えたらいいなぁ。

 

そして拾う神、K子さんありがとう。

また何かいいもの拾ったら、よろしくお願いいたします。

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ようこさんのこと

患者仲間で、いい友だちだった、ようこさんのことを書いて記憶しておきたいです。

ようこさんは膵臓がん患者の集いで出会いました。かわいくて明るくて30代に見えました。ステージ4b、3人の子のママで横浜住まいで、ちょっとトッポイところがあって、港のヨーコ横浜横須賀~と脳内で歌いたくなる感じ。横須賀関係ないけど。 

出会いは去年。あの時、手術して退院して間もない頃だったわたしは、不安と孤独のなかを闇雲にさまよって患者の集いに参加。その場に馴染めず、心細く座っているわたしに声をかけてくれたのがようこさんでした。誰に対してもこまやかな気遣いをする優しい人で、ありがたくてうれしくて、患者同士というよりも学校ではじめて友だちを作った中学生みたいな気分になった。

ようこさんは集いで出会った人たちとLINEのグループを作っていて、おかげで数人の患者さんやご家族さんたちと自然に仲良くなることができました。いっきに孤独が癒やされた。もう感謝しかない。

ようこさんのかかりつけ病院はわたしの自宅からバス1本と、便利だったこともあり、彼女の通院や入院にあわせてよく会うようになりました。東京タワーがズドーンと見える談話室で、いつもお茶を飲みながらいつまでも喋っていました。病気の話はほとんどせず、世間話やバカ話ばかり。きれい事抜きのブラックな話題もあった。編み物を教えてくれて、なかなかの鬼コーチだった。病気や治療の話をあまりしなかったのは、既にお互い調べ尽くしているのがわかっていたことや、病期の違い(深刻さと残された時間の違い)もあるけれど、ようこさんとわたしは患者仲間なのではなく普通の友だち同士だったからだと思いたい。去年の暮れにはようこさんとLINEグループの患者男性と3人で漫才トリオを組んで、患者の集いの二次会でアホな漫才をして楽しかった。

この春、4月の終わり頃。横浜中華街で遊ぼうぜーと誘ってくれた。ようこさんは中華街までチャリンコでやってきた。めちゃ地元民。さすが港のヨーコ。ワタリガニのあんかけチャーハンを分け合って食べて、八重桜を見に行った。「ソメイヨシノより八重桜がスキなの。重なった花びらとちょっと濃いピンクがかわいいよね。でもピンクのバラがもっと好き。来月は横浜のローズガーデンに行こうよ。バラのアーチが凄くキレイだからねー」そんな約束をして、日本大通りのカフェで今日は楽しいしもう飲んじゃおうぜーと泡の出るワインを、ふたりでノロノロ1時間以上かけて1杯のグラスを空けて、そしてようこさんは再び自転車で去っていった。

ひまわりみたいに明るい女性だったねと患者仲間たちはいうけど、わたしにはピンクのお花さんみたいな人でした。かわいくてやさしい繊細な花びらの重なりに、小さなトゲも隠してたと思う。バラ園はなかなか満開にならず、また約束の日は雨が降り、とうとうバラを見に行けないままに、ようこさんは入院していまいました。

 

そして6月の始め、地元の病院の緩和ケア科に転院。今回はお試しだから!緩和ってどんなとこか知りたいでしょう?まずは体験入院なのよーといいつつ、ようこさんはどんどん調子悪くなっていきました。

面会に行くといつもどおり病室で、バカ話と編み物の鬼コーチだったけど、ようこさんが希望した近所のショッピングセンターも一時帰宅も叶わず。時には、同じLINEグループの患者仲間M君と連れだって、何度も病室に通いました。なんとか手伝いたいと思っていた。

ある夕方、食も細ってきたようこさんが「ジャンクなものが食べたい」というのでM君とコンビニに出かけました。ソース焼きそば、餃子、ニンニク風味の唐揚げ、そしてM君が愛する缶チューハイ。これらおっさんメニューを、病室でこっそりひっそり、3人で食べました。「くーっ。シャバの味がするぜ!」とようこさんは喜んで、一口ずつ食べてくれました。楽しかったなぁ。

 

最後までやさしくしてくれました。最後にお見舞いにいった日にはもう病室を暗くして、旦那さんとお二人で静かに過ごされていました。それでもベッドからカラダを起こして、わたしに教えてくれたレース編みのできばえをチェックしようとしてくれました。ようこさんは鬼コーチだから「やだ怖い!明日持ってくるから」と答えたら、「でも明日はもう会えないかもしれないし」と言われました。ストローで水を飲もうにも、吸うちからがありませんでした。わたしはその状況が信じがたく。アホなことを言わないで~。明日また来るわ!ほなまたね!と、病室を後にしました。10分も滞在しなかった。わたしは家に帰って、夜遅くまで必死でレース編みを修正しました。褒めて欲しかった。

 翌朝、M君と10時に病院のもより駅で待ち合わせて、また面会に行くことにしました。電車で移動中にM君から着信。駅につき、M君に電話すると、もうようこさんはそこにはいません、今朝早く旅立たれ、葬儀社に移動されたと伝えられました。東神奈川駅は雨が降っていて、病院の前まで歩き、もうここにはいないんだなと。わたしもここにはもう来ないんだなと。あの日暮れ時、M君とコンビニへ、ジャンクなおっさんメニューを買い出しにいく道すがら、この空に花火がどーんと上がったことを思い出しました。横浜開港記念日の花火でした。

 

こうして、ようこさんとはもう会えなくなってしまいました。ようこさんと前後して、この夏はがん患者の知人や友人が3人旅立っていきました。みんなどこに行ったのだろう。

 

患者同士で仲良くなるのは考え物だ。言葉にならない思いがこころの底に溜まって息をするのが苦しくなる。ようこさんとのお別れは、わたしには実父が死んだときよりもひどく重く感じられ、いつまでも沈み込む。それは、行く先に到達する時間や距離の違いはあっても、わたしもようこさんと同じ道の上にいるからかもしれない。同じ病気の道の上。

だけど、友だちの時間は短かったけど、ようこさんは私にとって特別だったし、友だちになれてほんとうに良かった。かけがえのない人だ。ようこさんが繋いでくれたLINE仲間の、同じく患者仲間のTさんが「元気だったころの姿を思い出せばいい」と言っていた。その通りだと思います。病院の談話室での長い放課後。バカ話や一緒に食べたおっさん飯をずっと忘れない。これからも横浜に行くたび、よーこさんを思うでしょう。蒲田のユザワヤにいくたび、ようこさんに叱られて編み地をほどいたことを思い出すでしょう。

6月の雨に濡れたピンクのお花さん、ずっと大好きです。